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天領の商業地,大宇陀・宇陀松山のまちなみ / Ouda, Uda-Matsuyama, a Shogun’s Demesne.

By Minakoshoh @minakotokyo

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Ouda area flourished as an important point for traffic between Nara, Kyoto and Ise from the ancient era.
In the Age of Provincial Wars, Akiyama Klan construct a castle, and Matsuyama town was formed as the castle town.
The castle was demolished in 1616, but in the Edo period, Matsuyama town became tenryo (a shogunal demesne) , and came to be highly prosperous.

Matsuyama, Uda-City, Nara-Prefecture, Japan
May 2014, Olympus OM-D E-M1

周囲を吉野山地,大和高原などの山々に囲まれた大宇陀の地は,辺境の地ではありましたが,京都や奈良と伊勢とを繋ぐ交通の要衝でした。
大宇陀は,さらに古く飛鳥時代に遡って,「阿騎野」という名で狩り場として見いだされ,その名を日本書紀にとどめています。
交通の要衝だった大宇陀に本格的に町が形成され始めたのは,戦国時代,秋山氏がこの地に築城し,その城下町として宇陀松山のまちなみが展開したことが由来だと言われています。
その後,秋山氏は豊臣氏に追放され,代わって豊臣秀長(秀吉の弟)の家臣が入城し,城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ,現在に遺る町並みが整えられました。
元和元年(1616年)に城は壊されましたが,江戸時代に入り宇陀松山藩となってからは,織田信雄(信長の次男)が初代城主となり,四代にわたり松山藩を治めました。
元禄7年(1694年)に織田氏は国替えとなり,松山町は幕府の天領となります。
交通の要衝であった松山町は「宇陀千軒」,「松山千軒」と呼ばれて活況を呈したといいます。
(参照:宇陀市松山地区観光案内ホームページ)

奈良県宇陀市松山地区
2014年5月撮影,Olympus OM-D E-M1

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天領の商業地,大宇陀・宇陀松山のまちなみ / Ouda, Uda-Matsuyama, a shogun’s demesne.
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